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目次
1.宮崎での民医連運動の創設
2.全日本民医連と鹿児島民医連からの支援と連帯
3.県民の命と健康を守る活動
4.宮崎の民医連運動の発展と長期計画
5.民主的経営の発展
6.民医連運動を推進する職員集団づくりと組織運営

1.宮崎での民医連運動の創設

宮崎県での民医連運動は、「病気になったときに気軽に相談できる医療機関を宮崎にも」の願いを結集した「民主診療所設立準備会」の発足に始まりました。

  1975年11月の設立準備会総会では、「診療所建設に要する資金は、医療金融公庫からの借入と健康友の会による建設協力債でまかなう」「建設総予算は1億3500万円とする」「経営形態は医療法人をめざす」「建設協力債の募集とあわせて健康友の会員の拡大をはかる」ことを決定しました。民主的な医療への県民の願いは、7千万円を超える建設協力債に結実しました。また県内各域で開催した健康相談会は半年間で82回に達しました。

 こうした創立当初からの、地域住民の要求をつかみ、地域の中に打って出ていく活動の経験は、その後の宮崎での民医連運動の基本姿勢として定着していきました。
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2.全日本民医連と鹿児島民医連からの支援と連帯

 創設の当時、民医連の空白県は宮崎、福井、栃木、佐賀の4県になっており、全日本民医連は空白県を無くしていくことを総会で決定していました。そして鹿児島民医連が隣県宮崎の空白克服専任県連に指名されました。鹿児島県民医連は、その第一次長期計画において「宮崎に民主医療機関開設をすすめること」を決定し、開設準備の具体的な援助活動を開始しました。

  1976年10月に宮崎共立診療所が開設することができましたが、この歴史的な出発点を導いたものに民医連の空白克服という全日本の提起を受け止め、県連長期計画の中で医師派遣も明確にした草創期の鹿児島民医連医師団の強固な決意がありました。

3.県民の命と健康を守る活動

@県民の強い願いに支えられて出発した宮崎共立診療所は、一人医師体制の限界と医療機関運営の未熟さも内包しながらも、日常診療と地域での健康相談活動を両輪にして奮闘しました。全国の民医連の諸活動に謙虚に学びながら、慢性疾患患者様への援助活動、友の会会員に保健活動の担い手になってもらうための保健大学、健康まつりなど、現在の医療生協運動の原型となる諸活動が実践されました。

A中でも、「民医連医療の魂」とも云える働く人たちの健康を守る活動には、地域の労働組合や民主商工会と共同して取り組みました。 
 職員の労災認定闘争をすすめていた宮崎日々新聞労働組合は、鉛中毒検診を県外の千鳥橋病院から引き継いで、草創まもない共立診療所に委託してきました。また、早期発見・早期予防の取り組みとして、職員の健康アンケート、健康教室を行い、職場全体の健康づくり活動を援助しました。

Bその後に医師複数化など、診療体制が強化されると、日常の診療活動を充実させるともに「夜間診療を」という県民の要求に応えて週に2回の夜間診療を開始しました。

4.宮崎の民医連運動の発展と長期計画

 医療情勢が1977年の健保改悪に始まる医療改悪、老人医療費の負担増と老人医療に差別を持ち込んだ老人保健法の成立など、厳しさを増す中で宮崎の民医連運動が一定の発展を遂げることができたのは、第一に患者の人権を重視した医療・看護活動が地域と患者・組合員に支持されてきたこと、第二に医療情勢の変化や住民の要求、疾病動向などについて、県民医連の長期計画をもとに中長期の見通しを持って医療・経営・組織の計画を遂行してきたことによるものでした。

 宮崎の規模拡大の経過を鹿児島民医連長計でたどると、第一次長計での「宮崎県の空白克服」の計画は77年3月の宮崎共立診療所が17床診療所として結実しました。

 第二次長計の「宮崎の発展計画」は82年に医師複数体制が実現し、84年に医師3名体制、25床の病院化を達成しました。日常診療と併せて地域の組織づくり、健康づくり活動を発展させ、「経営再建」の道筋を作りました。

 県連10ヶ年構想にもとずく第三次長計では「宮崎生協病院の50床化増床と外科・小児科の開設」の計画が立てられ、87年に60床化と小児科開設、88年に外科を開設しました。

 第4次長計は情勢の厳しさと主体的力量、医師配置の困難性をともなうなかで、県都を強化する方針が提起され、宮崎生協病院の100床化、小児科・外科の複数化を計画しました。この課題は次期第5次長計(92年度〜96年度)に引き継がれ、宮崎生協病院の100床化を主要課題として追求しました。この100床化を県連的事業とすることの位置づけは、いとばる病院の継承など宮崎医療生協の活動を促進しました。

 そして、2002年度に宮崎生協病院120床化実現により、宮崎医療生協の長期計画の主要課題を達成することができました。宮崎生協病院の増床は宮崎医療生協の長年の課題であり、その実現に向けての取り組みは一直線には進みませんでしたが、県民医連による継続的な指導と援助、役職員の県連的結集、組合員との協同など、総合的な準備活動によるものでした。 
          

5.民主的経営の発展

@経営危機を克服できた教訓
 宮崎の経営は、診療所開設から5年目、1981年の上期が経過した時点で経営状 況は極めて深刻な状況に陥りました。資金繰りが困難を極め、個人からの借金で急場をしのぐという倒産寸前ともいえる状況でした。県民医連は現地実態調査を実施し、「役職員の判断や構えに甘さがあるこ との克服」「熟達した経営幹部の養成」「非常事態の認識を全職員に徹底する」「管理部の方針遂行と統制の強化」を指摘しました。


 この県民医連による現地調査と経営方針の提起は、「経営再建3ヶ年計画」として即、医師を先 頭にした全職員の実践に進化しました。、労働組合との積極的な合意も得て、再建計画は83年に ほぼ達成することができ、その後の病院化をすすめる経営基盤を確立しました。

 この経営再建の取り組みは、以下の教訓として総括され、今日の経営活動と管理運営の指針として生かされるものです。
 1.県民医連の指摘に対する実践の態度は謙虚で誠実に取り組 むこと。
2.職員の情熱と英知を信頼し、理事会・管理部会が指導性を 発揮し、目標に対して堅く団結すること。
3.
患者、組合員、地域の人たちとの信頼関係を基礎に、これ らの人たちの「声」に積極的に応えること。

Aさらに県民医連理事会と組織経営委員会の活動が、宮崎の経営活動を持続的に発展させる契機になりました。各法人と院所の経営活動を交流し、問題点の分析と対策課題を集団的に行えたことは、経営幹部の経営認識の発展にとどまらず、情勢の厳しい中での経営重視の基本姿勢を医師団を始め全職員に浸透させる大きな力になりました。こうした県民医連へ結集は、宮崎生協病院60床増床後の経営幹部の人事交流や共同組織の発展、宮崎生協病院の新築移転計画の推進など宮崎医療生協の経営活動を強化することに結びつきました。

6.民医連運動を推進する職員集団づくりと組織運営

 民医連運動の特質として、全役職員の力を最大限に結集できるところにあります。その保障となるものは、民主的管理運営にもとずく、全職員の意欲と創意の結集をすすめることです。

  宮崎・鹿児島での民医連発展の教訓は『組織や運動の発展はよくいわれるうに、それを担う人と意志の力(思想性)、そして的確な路線の確立によって保障される(30年の歩みより)』」に集約されます。独自の長計を持って長期の見通しを持った路線を確立することと、その計画達成を自らの使命と認識する医師団と職員集団の存在、このことが民医連運動発展の保障となってきました。

 医師団と職員を鼓舞し、勇気づける機能を果たしてきた、8次にわたる長期計画は、1967年当時の4診療所から現在の5病院12診療所までの施設拡大の原動力となりました。そして、長計の内容に基づく1000人を越える職員の実践が現在の峰を築き上げました。今、鹿児島、宮崎両県における民医連運動の新たな出発点を確認する時に、あらためて鹿児島・宮崎民医連の歴史の教訓に立ち返り、「全役職員の力を結集できる」組織運営に習熟することが必要です。

 「3年から5年後に達成する目標」になる長期計画が職員の中に浸透し、共有化されれば、長計実践の足跡が「自らの成長」の軌跡として確認され、展望する長計が「将来の夢の実現」として自分の日々の目標に取り込まれることになるでしょう。このように、組織の目標と個人の目標の一致することが私たち民医連運動の優位点です。この優位点を生かし職場での職員育成を基本課題にした職員の育成政策と看護・事務など各職種の政策を整備していかねばなりません。