4.宮崎の民医連運動の発展と長期計画
医療情勢が1977年の健保改悪に始まる医療改悪、老人医療費の負担増と老人医療に差別を持ち込んだ老人保健法の成立など、厳しさを増す中で宮崎の民医連運動が一定の発展を遂げることができたのは、第一に患者の人権を重視した医療・看護活動が地域と患者・組合員に支持されてきたこと、第二に医療情勢の変化や住民の要求、疾病動向などについて、県民医連の長期計画をもとに中長期の見通しを持って医療・経営・組織の計画を遂行してきたことによるものでした。
宮崎の規模拡大の経過を鹿児島民医連長計でたどると、第一次長計での「宮崎県の空白克服」の計画は77年3月の宮崎共立診療所が17床診療所として結実しました。
第二次長計の「宮崎の発展計画」は82年に医師複数体制が実現し、84年に医師3名体制、25床の病院化を達成しました。日常診療と併せて地域の組織づくり、健康づくり活動を発展させ、「経営再建」の道筋を作りました。
県連10ヶ年構想にもとずく第三次長計では「宮崎生協病院の50床化増床と外科・小児科の開設」の計画が立てられ、87年に60床化と小児科開設、88年に外科を開設しました。
第4次長計は情勢の厳しさと主体的力量、医師配置の困難性をともなうなかで、県都を強化する方針が提起され、宮崎生協病院の100床化、小児科・外科の複数化を計画しました。この課題は次期第5次長計(92年度〜96年度)に引き継がれ、宮崎生協病院の100床化を主要課題として追求しました。この100床化を県連的事業とすることの位置づけは、いとばる病院の継承など宮崎医療生協の活動を促進しました。
そして、2002年度に宮崎生協病院120床化実現により、宮崎医療生協の長期計画の主要課題を達成することができました。宮崎生協病院の増床は宮崎医療生協の長年の課題であり、その実現に向けての取り組みは一直線には進みませんでしたが、県民医連による継続的な指導と援助、役職員の県連的結集、組合員との協同など、総合的な準備活動によるものでした。
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